ゴー宣DOJO

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切通理作
2011.9.22 14:50

「脱原発」に足りないもの

脱原発デモに六万人が集まりました。

マスメディアにおいて原発推進の情報操作が利権を背景に行われていることが明らかな以上、対抗する国民の声を示すものとして、価値があるとは思います。

しかし『ヒロシマ・ノート』の著者である大江健三郎はじめ「反核」文化人を推し立てることで、「脱原発」を「反核」一般に解消しようという空気には、やはり抵抗を覚えざるを得ません。

 

脱原発デモと同じ日に、泉美木蘭さん主催のトークイベント『3.11にボクらが誤解したこと』があり、僕も出演しました。

 

木蘭さんが東北で出会った人々が逆に東京に来られ、この半年被災地で紡いできた絆のひとつの集大成となり、これからの中間総括になりました。

 そこでは、立場の違いを安易に一緒にしないで、あえて断絶を示すことで、同じ日本の問題として乗り越えようとする姿勢が感じられました。

 

物資にせよ文化にせよ、被災地に何が必要なのかの認識の違いや、同じボランティアでも民間と行政での立場の違い、そして民間の側の他力への依存と、行政の側のシステムへの依存双方の問題点や覚悟のなさが浮き彫りになって、非常に学ぶところの多い会だったと思います。

 

 録画映像がこちらで見れます

 

 

 http://www.ustream.tv/recorded/17374168 前半 

 http://www.ustream.tv/recorded/17375951 後半

 

そこで自らも被災された慰問団のリーダーの方が、脱原発運動への異和感を語っていました。

 

風評被害で東北の会社が潰れたり店が立ち行かなくなっていることが現実に存在している一方、放射能の被害については目に見えないがゆえに、被災地以外の人間がいくらでも声高に叫べる――そのことに彼は断絶を感じていたのです。

 

被災地により近い側が故郷の再生と復興を目指す気持ちと、被災地から離れた場所の人間の脱原発を願う気持ちが、一方が一方を否定、ないしは忘れ去ることで成立している。

 

私は東京に住み、被災地入りしたことは一度ありません。そして原発は即座になくした方がいいと思っています。

でもどちらかというと、脱原発デモで叫ぶ人の気持ちより、この慰問団のリーダーの言うことの方が自分の「感覚」に近いと思います。

 

脱原発を叫ぶ少なからぬ人が、自分はもう中年以上だからいいけど、子ども達には安心して暮らせる世の中にしてあげたい……と言います。

私はこれに、正直異和感があるのです。

 

放射能を除去した未来を語る時に、どうしても童話の世界みたいな「ファンタジー」や「ロマンティシズム」に人は満たされてしまう気がします。

イマジン(ジョン・レノンの)的な世界になってしまうのです。

 

小林よしのりさんの『国防論』で開陳された「脱原発で核武装」という考えは、そんなファンタジー色を一蹴するようなリアリズムがあります。

現実の国際関係の緊張感にさらされながら、一歩先の未来に踏み出していこうとする気概があります。

 

子ども達の未来も、誰にも侵食されないサンクチュアリであるはずがありません。かつてガレキとなった場所と一緒に立ちあがっていく先にあるのは、日本国のフルメンバーとして、お互いに「当事者」とみなすことが出来る誇りある社会であってほしいと思います。

 

もちろん、そのためには智恵も必要です。

今度の「ゴー宣道場」は『国防論』がテーマです。

「一歩先の未来」を、一緒に語り合ってみませんか?

28日の応募締め切りまであと数日。

ぜひ、ふるっての参加お待ちしております。

切通理作

昭和39年、東京都生まれ。和光大学卒業。文化批評、エッセイを主に手がける。
『宮崎駿の<世界>』(ちくま新書)で第24回サントリー学芸賞受賞。著書に『サンタ服を着た女の子ーときめきクリスマス論』(白水社)、『失恋論』(角川学芸出版)、『山田洋次の<世界>』(ちくま新著)、『ポップカルチャー 若者の世紀』(廣済堂出版)、『特撮黙示録』(太田出版)、『ある朝、セカイは死んでいた』(文藝春秋)、『地球はウルトラマンの星』(ソニー・マガジンズ)、『お前がセカイを殺したいなら』(フィルムアート社)、『怪獣使いと少年 ウルトラマンの作家たち』(宝島社)、『本多猪四郎 無冠の巨匠』『怪獣少年の〈復讐〉~70年代怪獣ブームの光と影』(洋泉社)など。

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